四国の古刹や名園を巡る中で、高知県にある吸江禅寺(きゅうこうぜんじ)(旧・吸江庵)を訪ねました。

南北朝時代、天龍寺や西芳寺(苔寺)など京都の傑作庭園を手がけた名僧・夢窓疎石(むそうそせき)が土佐へ赴き、最初に草庵を結んだとされる伝説の地です。

吸江禅寺(旧・吸江庵)の境内入口。
夢窓疎石が土佐で最初に草庵を結んだとされる地に足を踏み入れる。

しかし、足を踏み入れた境内には、一つの「違和感」と、それを遥かに上回る「圧倒的な驚き」が待っていました。

1. 表の庭の違和感――これは本当に夢窓疎石の作庭なのか?

まずは、境内に足を踏み入れて最初に出迎えてくれる「表の前庭」の写真をご覧ください。

表の前庭に続く直線的な延段。
通路脇には高知の温暖な気候を映すソテツが配されている。

先ずは「延段(のべだん)」のお出迎えです。直線を意識した帯状の通路です。

通路の脇には蘇鉄が配されています。

温暖で多雨な高知ならではのソテツ。
桃山〜江戸期以降、庭園のアクセントや権威の象徴として好まれた手法だ。

高知は黒潮(暖流)の影響を受けて冬でも温暖で雨量が多く、ソテツの生育に理想的な気候環境を備えていて、高知の庭園では多用されています。

浦戸湾を望む「完成された現代枯山水」

表の前庭(枯山水)と浦戸湾の借景。
白砂利の先に広がる海と山並みの開放感は、
昭和の現代庭園としての完成度の高さを物語る。

これが建物側から見た「表の前庭」です。枯山水の庭園です。

白砂利に伏石などを岩島に見立てている。そして、連続したその向こうにある景色が浦戸湾です。

浦戸湾の海と対岸の山並「ダイナミックな海の借景」が視界に飛び込んできます。

重森三玲の志度寺「無染庭」や徳島県の馬美にある本楽寺を思い出す。本楽寺は吉野川と阿讃山脈(あさんさんみゃく)を借景とした枯山水である。

意匠から読み解く作庭時代のギャップ

一般的な観光案内やネット上の紹介記事では、この風景の写真とともに「夢窓疎石ゆかりの庭」として紹介されることが少なくありません。

しかし、実際にこの庭の造形や石の据え方を見つめていると、どうしても拭えない疑問が湧いてきます。

「ちょっと待てよ、これは本当に夢窓疎石の庭なのか?」と。

「表の前庭」は確かによく計算されて作り上げられた庭園であることは間違いありません。しかし、浦戸湾の海と対岸の山並「ダイナミックな海の借景」があるものの、夢窓疎石の特徴や良さがこの庭にはないような気がしました。

直線的な「延段(のべだん)」や蘇鉄は安土桃山時代から庭に取り入れられ、江戸時代でよく使われ始めた。そして、ソテツは権威の象徴として植えられている面もあった。先程の志度寺や本楽寺の作庭時期は昭和なのです。

後で歴史的な変遷を紐解くとやはりその通りで、この前庭は夢窓疎石が生きた鎌倉末期のものではなく、近現代(昭和末期〜平成期)になってから境内の維持や参拝者のために新しく作庭されたものです。鎌倉・南北朝時代の庭園が持つ重厚な石組みや野生の迫力とは、あきらかに質感が異なります。

一般的な観光案内やネット上の紹介記事につられ、表の景色だけに目を奪われていると、この地の本当の歴史的価値を見誤ってしまうかもしれません。

2. 奥の山側へ――そこに広がっていた圧倒的な「無作の野趣」

違和感を抱いたまま本堂の裏手、山側の斜面へと足を進めました。

するとそこには、表の穏やかな庭とは全く異なる、息を呑むような光景が広がっていたのです。

野生味あふれる巨石と枯滝組

本堂裏手に広がる重厚な枯滝組。
どれが元々の山肌の岩で、どれが据えられた石か判別がつかないほどの
野生味を放つ。

巨石を使った枯滝組です。使われた石はどれが据えられた石か、どれが元々の石かはもはや分かりません。

枯滝の下流部から池へと続く石組み。
無骨で荒々しい自然石が、山肌の傾斜をそのまま活かして組み上げられている。

滝の下流部分で池に流れ込む様子です。多少穏やかになっていますが、武骨な石が使われています。

裏庭の池泉部。
手前には丁寧な護岸石組みが施される一方、
対岸はむき出しの岩肌と崖がそのまま庭の一部となっている。

池の様子です。手前は護岸の石が組まれていますが、対岸は崖の岩肌がそのまま使われています。

天然の崖と古代の意匠「亀石組み」

枯滝の中部に見られる亀島の石組み。
古くからの意匠を踏襲しつつ、山側の斜面と見事に融合している。

滝の中部をよく見ますと、亀の様な石組みがあります。

亀を庭に取り入れたのは、飛鳥時代が始まりだと言われています。

これこそが、夢窓疎石の精神が息づく場所です。

たとえ当時の完全な地表遺構そのものではないとしても、後世にこの地を整えた庭師たちが「夢窓疎石なら、この山肌をどう活かすだろうか」と深くリスペクトし、その美学を再現・継承した空間であることに疑いはありません。

元々その場にあったであろう荒々しい巨岩群を、あたかも庭の主景であるかのように自然に取り込み、五台山の斜面という「天然の骨格」をそのまま生かした地割。

人間の作意を極限まで消し、自然の圧倒的な生命力の中に身を委ねる――まさに疎石が求めた「無作(むさく)の野趣」が、そこに凝縮されていました。

3. 吸江の空間コンセプト――「海の借景」と「山肌の巨岩」

夢窓疎石がこの吸江の地で見出した空間構成は、非常にダイナミックなものでした。

  • 前庭(空間の表):目の前に開ける浦戸湾の広い水面と対岸の山並み、潮風を取り込む「ダイナミックな海の借景」。
  • 奥庭(空間の裏):五台山の山裾に抱かれ、天然の巨岩と山肌の斜面をそのまま活かした「力強い山水の露呈」。

人工的な箱庭を作るのではなく、自然が持つマクロな広がり(海)と、ミクロな力強さ(山肌の巨石)を同時に感じ取れる場として、この庵居はデザインされていたのです。

4. 竹林寺との往還――「海」と「山」という対極の空間で重ねた修行

吸江からほど近い場所には、同じ五台山の山懐に抱かれた古刹・竹林寺(ちくりんじ)があります。

五台山の豊かな山林に包まれた竹林寺。
吸江の開放的な海とは対照的な、密室的で深い自然空間が広がる。

夢窓疎石は土佐に滞在中、浦戸湾を望む「吸江」と、深い樹林に囲まれた「竹林寺」という、環境も空気感も全く異なる二つの場を頻繁に行き来しながら修行を重ねていました。

苔むした石畳と木漏れ日が続く参道。
自然の傾斜や樹林を活かし、仏教の精神世界へと導く作意の空間。

一見すると単なる移動のようですが、この「海」と「山」という対極の空間を往還することこそが、疎石の作庭観を決定づける極めて重要な時間だったのです。

「海」の無作と「山」の作意

  • 「海」の吸江(無作の場):浦戸湾に向かって視界が大きく開けた吸江は、潮風が吹き抜け、水平線と大空がどこまでも広がるダイナミックな環境です。ここには人間の小さな作意など到底太刀打ちできない「大自然の圧倒的なスケール」があります。
  • 「山」の竹林寺(作意の場):一方で竹林寺は、五台山の鬱蒼とした樹林と傾斜、湧水に包まれた密室的な空間です。山の斜面や岩盤、湧き出る水といった天然の素材を活かしながら、いかにしてそこに「仏教の精神世界」を表現するかという、人間側の深い美意識と技巧が問われる場でした。

いわば疎石は、「人間が手を加えることすら愚かに思えるほど雄大な自然(海)」と、「自然の骨格を読み解き、人の手で精神空間へと昇華させる作業(山)」という、両極端の環境を身体ごと行き来していました。

動中の工夫――自然とガチンコで向き合う修行

机上で経典を読んだりただ座って瞑想するだけが修行ではありません。

風の音を聞き、巨石と対峙し、土を掘り、木々の生長を見守る――。目の前の荒々しい自然とガチンコで対話し続けることそのものが、彼にとっての最も純粋な修行(動中の工夫)でした。

この土佐での濃密な「自然との対話の往還」があったからこそ、彼の作る庭は単なるきれいな人工物に留まらず、見る者の心を揺さぶる圧倒的な生命力を宿すことになったのです。

5. 土佐から京都へ――名園誕生の原点

山肌の巨大な天然岩盤。
人間の作為を超えた自然の骨格が、そのまま庭の主景となっている。

後に土佐を離れた夢窓疎石は、京都へ戻り、天龍寺の「曹源池庭園」や西芳寺(苔寺)といった日本庭園史に残る大傑作を手がけることになります。

彼が土佐の海と山で自然と向き合い、泥臭く対話を重ねる中で持ち帰ったもの――それは単なる石の配置技法ではありません。

「自然のありのままのスケール感(海の借景)」と「人間の精神が紡ぎ出す緻密な美意識(山の石組)」をひとつの空間の中で見事に調和させるという、圧倒的な空間デザインのビジョンでした。

「山水には得失なし、得失は人の心にあり」

表の現代庭園に隠された違和感を見抜き、裏手の山肌に息づく疎石へのリスペクトと修行の足跡を感じ取ったとき、この吸江の地が日本の庭園文化の巨大な実験場であったことが深く腑に落ちるのでした。

夢窓疎石の庭

👉瑞泉寺の岩盤庭園を解説!夢窓疎石の名園を樹木医の視点で紐解く

👉高知・五台山「竹林寺庭園」|庭造りに宿る「道」の精神と、樹木医の眼差しで読み解く作庭の真髄

日本庭園の見方が変わる!樹木医が教える名庭の鑑賞ポイント